第17章 上場赤字企業の黒字化モデル
読了の目安 約4分PART IIでは、既に黒字を出している成熟企業を主な対象として、PER、DDM、DCFといった評価手法を組み立ててきた。しかし、株式市場には、まだ利益が出ていない、つまり「赤字」の企業が数多く存在する。急成長中のスタートアップ、大規模な先行投資を続けるテクノロジー企業、あるいは事業再生の途上にある企業——これらの会社に対して、これまで学んできた手法をそのまま適用しようとすると、途端に壁にぶつかる。この章では、この「赤字企業をどう評価するか」という、実務上、極めて頻繁に直面する難問に取り組んでいく。
なぜ赤字企業の評価は「別物」なのか
まず、赤字企業の評価がなぜこれほど難しいのか、その根本原因を整理しておこう。第10章で学んだPERは、分母が当期純利益である以上、利益がマイナスの会社には、そもそも定義自体が成立しない(マイナスの数字で割ることに意味がないばかりか、符号が反転して訳の分からない数字が出てしまう)。第12章で学んだDDMも、配当を支払う余力がない赤字企業には適用できない。
残された道は、基本的に第13章・第14章で学んだDCFのアプローチを、より慎重に、より丁寧に組み立て直すことだ。しかし、ここで新たな難問が立ちはだかる。DCFの出発点は「将来のFCF(あるいはFCFE)の予測」だったが、赤字企業の場合、そもそも「いつ黒字化するのか」「黒字化した後、どの水準の利益率に落ち着くのか」という、極めて不確実性の高い予測を、モデルの根幹に据えなければならないのだ。
黒字化モデルの骨格:「今の赤字」と「将来の黒字」を橋渡しする
赤字企業を評価するための実践的なフレームワークとして、この教科書では「黒字化モデル」と呼ぶアプローチを提案する。これは、第08章で学んだドライバー予測の考え方を、より意識的に、「収益性が改善していく過程」そのものに焦点を当てて適用する手法だ。
具体的な手順は、次のようになる。まず、売上高の成長ドライバー(顧客数の増加、客単価の向上など)を、これまで通り丁寧に予測する。次に、費用構造を「固定費」と「変動費」に分解する。多くの赤字企業、特に初期投資がかさむテクノロジー企業やインフラ関連企業では、売上が一定の規模に達するまでは、固定費(研究開発費、システム投資、営業人員の維持費など)の負担が重く、利益を圧迫している。しかし、売上高が拡大していくにつれて、固定費が売上高に対して相対的に薄まっていく(これを「オペレーティング・レバレッジ」と呼ぶ)ことで、ある時点から急速に利益率が改善していく、という構造がしばしば見られる。
この「固定費が薄まっていく過程」を数式として明示的にモデル化することが、黒字化モデルの核心である。例えば、「売上高が◯◯億円に達した時点で、固定費の対売上高比率が◯%まで低下し、その結果、営業利益率がプラスに転じる」といった具体的なシナリオを、業界の類似企業の事例(先行して成長を遂げた競合他社が、どのような売上規模で黒字化を達成したか、という過去の実例)を参照しながら、具体的な数字に落とし込んでいく。
「いつか黒字になる」という願望と、「いつ黒字になるか」という予測の違い
ここで、極めて重要な、心理的な落とし穴について警告しておきたい。赤字企業、特に将来性に期待が持たれている企業を評価する際、評価者は無意識のうちに、「この会社はきっと将来黒字化するはずだ」という願望を、いつの間にか「黒字化する」という確定した前提にすり替えてしまいがちだ。これは、第09章で強調した「観測事実・推定・仮定を分ける」という原則の、最も試される局面の一つである。
「黒字化する」という前提そのものが、実は評価者自身が置いた「仮定」に過ぎない、という自覚を、決して失ってはならない。実務的な対処法としては、黒字化のタイミングや、黒字化後の利益率水準について、単一のシナリオだけでなく、「早期に高い利益率で黒字化する強気シナリオ」「想定通りのペースで黒字化する標準シナリオ」「黒字化が遅れる、あるいは利益率が低位にとどまる弱気シナリオ」といった、複数のシナリオを並行して構築し、それぞれのシナリオに基づく理論株価のレンジを提示する、という手法が、極めて有効である。単一の「点」としての理論株価ではなく、「幅」を持った理論株価を提示することこそが、赤字企業評価における、知的な誠実さの表れなのである。
資金繰りという追加のチェックポイント:黒字化前に資金が尽きないか
赤字企業を評価する際には、もう一つ、成熟した黒字企業の評価では通常あまり気にする必要のない、重要なチェック項目が加わる。それは、「黒字化を達成する前に、その企業の手元資金(第03章で学んだ現金)が尽きてしまわないか」という、資金繰りの検証である。
赤字が続いている間、企業は営業活動によってキャッシュを消費し続けている(これを「キャッシュバーン」と呼ぶ)。もし、黒字化に至るまでの期間が、当初の想定よりも長引いた場合、企業は追加の資金調達(新株発行や借入)を余儀なくされることがある。この場合、第05章で学んだ「希薄化」が、通常の成熟企業よりもはるかに大きな規模で発生するリスクがある。赤字企業のDCFモデルを組み立てる際には、この「黒字化までのキャッシュバーンの累積額」と「現在の手元資金」を必ず比較し、資金調達(そしてそれに伴う希薄化)が必要になるかどうかを、明示的にモデルに織り込んでおく必要がある。この一手間を怠ると、理論株価が、実現不可能な「無借金・無希薄化」の前提の上に築かれた、砂上の楼閣になってしまう。