第42章 SaaS・サブスクリプションの価値評価
読了の目安 約3分この一連の業種別評価の旅の中でも、特に現代的で、かつ独自の評価上の視点を必要とする業種——SaaS(Software as a Service)・サブスクリプション型ビジネスの評価を扱う。この業種は、第17章で扱った赤字企業の黒字化モデルとも深く関連しながら、独自の指標体系を発展させてきた。
SaaSビジネスモデルの本質:「先行投資して、後から回収する」構造
SaaS・サブスクリプション型のビジネスモデルの本質は、「顧客を獲得するために、先行して営業・マーケティングコストを投じ、その顧客から、継続的に(多くは月次・年次で)利用料を回収することで、長期間かけて、その先行投資を回収し、利益を上げていく」という構造にある。この「先に投資し、後から、長期間にわたって回収する」という時間差の構造は、第02章で学んだ現在価値の考え方が、極めて重要な意味を持つ、典型的なビジネスモデルだと言える。
LTVとCACという、SaaS業界に固有の中核指標
SaaS業界の評価において、極めて広く用いられる、業界固有の指標が、「LTV(Life Time Value、顧客生涯価値)」と「CAC(Customer Acquisition Cost、顧客獲得コスト)」だ。
LTVとは、一人の顧客が、契約を継続している期間全体を通じて、その企業にもたらす利益の、現在価値の合計を指す。これは、第12章で学んだゴードン成長モデルの発想——将来にわたって継続する価値の流れを、現在価値に集約する——を、個々の「顧客」という単位にまで、解像度を上げて適用したものだと理解できる。
LTV ≒ (顧客一人当たりの月間利益) ÷ (月次解約率)
この式の分母にある「月次解約率」は、第38章で扱った通信業界の「解約率(チャーンレート)」と、全く同じ概念であり、SaaSビジネスにおいても、極めて重要なドライバーとして機能する。解約率が低い(顧客の定着率が高い)ほど、一人の顧客がもたらす生涯価値は、大きくなる。
一方、CACとは、一人の新規顧客を獲得するために要した、営業・マーケティングコストの平均額を指す。SaaSビジネスの経済性を評価する上で、「LTVが、CACを、どれだけ上回っているか(LTV/CAC比率)」は、そのビジネスモデルが、健全に価値を創造できているかどうかを判断する、極めて重要な指標となる。この関係は、第15章で学んだ「ROICがWACCを上回っているか」という視点と、本質的に同じ構造を持っている。CACを「投じた資本」、LTVを「その資本から得られるリターン」と読み替えれば、両者は驚くほど似通った問いを投げかけていることに気づくはずだ。
SaaS企業のドライバー予測:契約獲得ペースと、ネット・リテンション・レート
SaaS企業のFCF予測(第08章)を組み立てる際には、「新規契約獲得のペース(営業・マーケティング投資に応じて、どれだけの新規顧客を獲得できるか)」と、「既存顧客の継続率、さらには、既存顧客からの追加購入・アップグレードによる収益拡大の度合い(これを『ネット・リベニュー・リテンション・レート』と呼ぶ)」という、二つの軸を、明確に分けて予測することが、実務上、標準的なアプローチとなっている。
特に、ネット・リベニュー・リテンション・レートが100%を大きく上回っている(つまり、新規の顧客獲得が全くなくても、既存顧客からの収益が、年々拡大していく)企業は、極めて強固な収益基盤を持っていると評価され、理論株価においても、高い評価が正当化されやすい。この指標は、第17章で扱った「黒字化モデル」における、固定費が売上に対して薄まっていく「オペレーティング・レバレッジ」の効果とも、密接に関連している。