第3章 貸借対照表と純有利子負債
読了の目安 約5分前章で手に入れたのは、「時間とお金の関係」を扱う数学的な道具だった。この章からは少し毛色が変わり、「企業の財布の中身をどう読み解くか」という、会計の世界に足を踏み入れる。多くの初心者がここで一度、心の中で「うっ」と小さな悲鳴を上げる。会計と聞いただけで、簿記の教科書の分厚さと、借方・貸方という謎の呪文を思い出して身構えてしまうのだ。だが安心してほしい。この教科書で必要なのは、公認会計士になるための知識ではない。理論株価を計算するために本当に必要な部分だけを、徹底的に絞り込んで解説する。
貸借対照表とは「ある一瞬の財産のスナップショット写真」
貸借対照表(バランスシート、B/S)というのは、企業がある特定の日(たとえば決算日である3月31日)における、財産の状態を「写真」のように一枚に写し取ったものだ。これは、後述する損益計算書(P/L)が「ある期間(1年間など)の間に何が起きたか」を記録する動画であるのとは対照的に、貸借対照表は「ある一瞬」の静止画である、という違いを、まず頭に叩き込んでほしい。
貸借対照表は、大きく分けて左側と右側、二つのブロックで構成されている。この「左右対称の板」だからバランスシートと呼ばれる。左側には「資産」、つまり会社が持っているモノやお金——現金、工場、機械、在庫、他社への貸付金などが並ぶ。右側には、その資産を「どうやって手に入れたか」という調達方法が並び、これはさらに「負債」と「純資産(自己資本)」の二つに分かれる。負債とは、銀行からの借入や社債など、いずれ返さなければならない「他人から借りてきたお金」。純資産とは、株主から出資してもらったお金や、これまで会社が稼いで貯めてきた利益の蓄積など、「返さなくていい自分たちのお金」である。
そして貸借対照表の最大の特徴、絶対に外してはいけない大原則が一つある。それは、「左側の合計(資産の総額)」と「右側の合計(負債+純資産の総額)」は、常に、必ず、一円たりとも違わずに一致するということだ。これは会計上のルールというより、ほとんど物理法則に近い。会社が持っている資産(左側)は、必ず何らかの方法で調達されているはずであり(右側)、その調達方法は「借りてきた(負債)」か「自分たちで出した・稼いだ(純資産)」のどちらかしかない。だから左右は常にイコールになる。この「左右一致」という性質のおかげで、貸借対照表は「バランス」シートと呼ばれているのだ。
なぜ理論株価評価に貸借対照表が必要なのか
ここで素朴な疑問が湧くかもしれない。「株価を計算するのに、なぜわざわざ会社の財産目録なんて見る必要があるのか」と。この疑問への答えこそが、この章の核心である。
理論株価評価の最終目標は、「企業全体の価値」を計算し、そこから「株主が受け取る取り分」を割り出すことにある。ここで重要な事実がある。企業が生み出す価値というのは、実は株主だけのものではない。企業にお金を貸している銀行や社債権者(債権者)にも、その企業の価値に対する「取り分」がある。企業を一つの大きなパイだと考えると、そのパイは「株主の取り分」と「債権者の取り分(=借金の返済)」に分割される。
したがって、後の章(第06章 EVと株主価値を混ぜない、で徹底的に扱うことになるが)で登場する「企業価値(EV)」という概念は、実はこの「株主+債権者、全体のパイ」を指している。そして、その全体のパイから、債権者への取り分(借金)を差し引いて初めて、「株主の取り分(株主価値、つまり時価総額)」が見えてくる。この「差し引き計算」に、貸借対照表に記載されている負債の情報が、まさに主役級の重要性を持って登場するのである。
純有利子負債という「本当の借金」
ここでもう一段、解像度を上げよう。貸借対照表の右側にある「負債」には、実はさまざまな種類が混ざっている。銀行からの借入金や社債といった、明確に「利息を払う約束をした借金」もあれば、「買掛金(まだ支払っていない仕入れ代金)」や「未払金」「前受金」など、利息が発生しない、単なる商取引上の「後払い」も含まれている。
理論株価評価において重要なのは、この後者(利息が発生しない商取引上の負債)ではなく、前者、つまり「利息を払う義務のある借金」だけである。これを「有利子負債」と呼ぶ。なぜこの区別が重要かというと、有利子負債は、その企業の価値のうち、確実に債権者へ流出していく取り分(元本の返済+利息)を表しているからだ。一方、買掛金のような無利子の負債は、単なる支払いタイミングのズレであり、企業価値の分配とは直接関係しない。
さらにもう一段深く入る。「純」有利子負債という言葉に注目してほしい。「純」とは何かというと、有利子負債の総額から、企業が保有している現金及び現金同等物(すぐに使える手元資金)を差し引いた金額のことだ。
なぜ現金を差し引くのか。考えてみてほしい。もしある会社が1,000億円の借金を抱えていたとしても、同時に900億円の現金を金庫に眠らせているとしたら、その会社の「実質的な借金」は、差し引き100億円だと考えるのが自然だろう。極端な話、その900億円を使って借金を返済してしまえば、残る借金は100億円になる。理論株価評価では、こうした「相殺した後の、実質的な負債」を扱うことが重要であり、これこそが「純有利子負債(ネット・デット)」という概念である。
純有利子負債 = 有利子負債(借入金・社債など) − 現金及び現金同等物
この数字がマイナスになる会社(つまり借金よりも保有現金の方が多い会社)も現実には存在する。こうした会社は「実質無借金」あるいは「ネットキャッシュ」の会社と呼ばれ、財務的な安全性が非常に高いと評価される一方、後の章で扱う資本コストの観点からは「お金を有効活用できていないのではないか」という別の論点も生まれてくる。この点は、株主資本コストとWACCを扱う第07章で改めて深掘りする。
貸借対照表を読むときの「初心者あるある」の罠
最後に、初心者が貸借対照表を読むときに陥りがちな罠を二つ、あらかじめ潰しておきたい。
一つ目は、「負債=悪、純資産=善」という単純な思い込みだ。確かに借金は返済義務があり、リスク要因ではある。しかし、適度な借入は、企業が事業拡大のための資金を低コストで調達する、極めて合理的な手段でもある。後の章(WACCの章)で扱うが、一般的に借入による資金調達コストは、株主から出資してもらう資金調達コストよりも低いことが多い。つまり、「借金がゼロ=優良企業」という単純な図式は、必ずしも成り立たない。重要なのは、借金の「量」そのものではなく、その借金を返済できるだけの利益やキャッシュフローを、その企業が安定して生み出せているかどうかである。
二つ目の罠は、「貸借対照表の数字を鵜呑みにしてしまう」ことだ。貸借対照表に載っている資産の金額は、多くの場合「取得したときの価格(取得原価)」をベースに記録されており、必ずしも「今売ったらいくらになるか(時価)」を反映しているわけではない。例えば数十年前に取得した土地が、当時の価格のまま帳簿に記載されているケースは珍しくなく、実際の時価とは大きく乖離していることがある。理論株価評価においては、こうした帳簿価格と実勢価格のズレにも、常に注意を払う必要がある——これは、後の章で「観測事実・推定・仮定を分ける」というテーマを扱う際に、改めて重要な論点として再登場する。
さて、企業の「財産の写真」の読み方が分かったところで、次章ではいよいよ「動画」の方、つまり企業が1年間にどれだけ稼ぎ、どれだけの現金を実際に生み出したのかを追いかける、損益計算書とキャッシュフローの世界に進んでいこう。