第5章 1株価値と希薄化
読了の目安 約5分ここまでの章で、私たちは「会社全体」としての価値を計算するための材料——現在価値の考え方、貸借対照表、そしてFCF——を手に入れてきた。しかし、私たちが証券口座を開いて実際に売買するのは「会社全体」ではない。「1株」という、会社全体を細かく切り分けた、小さなピースである。この章では、「会社全体の価値」から「1株あたりの価値」へと変換する、いわば「大きなケーキを、参加者の人数分だけ均等に切り分ける」作業を扱う。そしてこの作業には、初心者が必ずと言っていいほど見落とす、非常に重要な落とし穴——「希薄化」——が潜んでいる。
発行済株式数という「ケーキの切り分け枚数」
会社の価値(この時点では「株主に帰属する価値」だとしておこう。企業価値と株主価値の違いは第06章で徹底的に扱う)を、1株あたりの価値に変換するためには、単純にこう考えればいい。
1株あたりの価値 = 株主に帰属する価値の総額 ÷ 発行済株式数
例えば、ある会社の株主価値の総額が1,000億円で、発行済株式数が1億株だとすれば、1株あたりの価値は1,000円になる。ここまでは、算数の割り算そのものであり、難しいことは何もない。
問題は、この「発行済株式数」という数字が、実は将来、勝手に増えることがあるという点にある。この「増える」という現象こそが「希薄化(ダイリューション)」と呼ばれるものであり、初心者がここで正しく理解していないと、理論株価評価の結果が大きく狂ってしまう。
希薄化とは何か:ケーキの切り分け枚数が後から増える現象
希薄化を理解するために、また例え話をしよう。10人でケーキを均等に分けることになっていたとする。1人あたりの取り分は、ケーキ全体の10分の1だ。ところが、ケーキを切り分ける直前になって、急に招待客が2人増えて、合計12人でケーキを分けることになったとしよう。ケーキ全体の大きさは変わっていないのに、1人あたりの取り分は10分の1から12分の1に減ってしまう。これが希薄化のイメージだ。
株式の世界で、この「後から招待客が増える」現象を引き起こす主な要因は、次のようなものがある。
一つ目は、新株予約権やストックオプションだ。多くの企業、特に成長中のテクノロジー企業などは、経営陣や従業員へのインセンティブとして、「将来、あらかじめ決めた価格で株式を購入できる権利(ストックオプション)」を付与することがある。もしこの権利を持つ人たちが実際にその権利を行使すれば(通常、株価がその決められた価格よりも上昇していれば行使する経済合理性が生まれる)、新たに株式が発行され、発行済株式数が増加する。会社全体の価値のパイの大きさ自体は増えていないのに(あるいは、行使価格分の現金が会社に入ってくる分、多少パイは増えるが)、パイを切り分ける枚数が増えることで、既存株主1人あたりの取り分は目減りする。
二つ目は、転換社債(コンバーティブル・ボンド)だ。これは、当初は「借金(債券)」として発行されるが、契約書に定められた一定の条件下で、保有者が「株式に転換する権利」を行使できるという、負債と株式のハイブリッドのような金融商品である。この転換権が行使されると、これもまた発行済株式数を押し上げる要因になる。
三つ目は、公募増資や第三者割当増資といった、企業が新たに資金調達を目的として株式を新規発行するケースだ。これは事業拡大や借金返済のための資金確保など、正当な経営判断として行われることが多いが、既存株主から見れば、やはり「切り分け枚数が増える」という希薄化の一種である。
完全希薄化後株式数という「最悪のケースを織り込んだ枚数」
理論株価評価をプロレベルで行う際には、単純な「現在の発行済株式数」だけでなく、「完全希薄化後株式数(フリー・ディリューテッド・シェアーズ)」という、より保守的な数字を使うことが強く推奨される。これは、現時点で行使可能な新株予約権やストックオプション、転換社債などが、すべて「今すぐ株式に転換された」と仮定した場合の、最大限に膨らんだ発行済株式数のことだ。
なぜこのような、いわば「最悪のケース」を織り込んだ数字を使うべきなのか。理由は単純で、理論株価評価という営みは、常に「保守的に、慎重に見積もる」ことが基本姿勢だからだ。もし将来、希薄化が実際に発生した場合、それを織り込んでいなかった理論株価は、実態よりも過大な数字になってしまう。逆に、あらかじめ完全希薄化後株式数を使って計算しておけば、「これ以上は希薄化しない、最も厳しい前提での1株価値」を手にすることができる。これは、意思決定において非常に安全側に倒した、賢明なアプローチである。
自社株買いという「逆・希薄化」の存在
ここで一つ、希薄化とは正反対の現象にも触れておきたい。それは「自社株買い」だ。企業が自らのキャッシュを使って、市場に流通している自社の株式を買い戻し、それを消却(発行済株式数から取り除くこと)する行為である。
これは、先ほどのケーキの例えで言えば、「12人で分けるはずだったケーキから、2人分の招待客が(お金を払って)席を立って帰ってくれた」ような状況に近い。残った10人で、そのケーキを分けることになるので、1人あたりの取り分はむしろ増える。自社株買いが行われると、発行済株式数は減少し、他の条件が全く同じであれば、1株あたりの価値は上昇する。これは、多くの成熟企業が株主還元策として自社株買いを積極的に活用する理由でもある。
10年後の株価を予測する上で、この教科書がこれから扱う長期モデルにおいては、「今後10年間、この会社は希薄化する方向に向かうのか、それとも自社株買いによって発行済株式数を減らしていく方向に向かうのか」という予測が、最終的な1株あたりの理論株価に、無視できないほど大きな影響を与えることになる。この論点は、後のPARTで具体的なモデル構築を扱う際に、改めて実践的な形で登場する。
この章の総括:分母への意識を持つ
利益や企業価値といった「分子(パイ全体の大きさ)」にばかり注目し、発行済株式数という「分母(切り分ける枚数)」への意識が薄い投資家は、驚くほど多い。しかし、私たち個人投資家が最終的に手にするリターンは、常に「1株あたり」の価値の変化によって決まる。会社全体の価値が2倍になったとしても、その間に発行済株式数も2倍に増えていたら(極端な希薄化が起きていたら)、1株あたりの価値は全く変わらない、ということすら起こりうるのだ。
「分子だけでなく、分母にも常に目を配る」——このシンプルながら極めて重要な視点を、この章を通じて君の思考回路に刻み込んでほしい。次章では、いよいよ「企業価値(EV)」と「株主価値」という、初心者が最も混同しやすい二つの概念を、徹底的に、これでもかというほど明確に区別していく作業に入っていこう。