第38章 通信会社の価値評価
読了の目安 約4分この一連の業種別評価の旅の締めくくりとして、通信会社(携帯電話事業者や、固定通信事業者)の評価を扱う。通信業界は、第27章・第28章で扱った電力・ガスといった規制公益会社との共通点を持ちながら、独自の競争構造と成長ドライバーを持つ、興味深い業種である。
通信業界の収益構造:契約者数、ARPU、そして解約率
通信会社(特に携帯電話事業者)のドライバー予測(第08章)における、最も基本的な構成要素は、「契約者数」と「ARPU(Average Revenue Per User、契約者一人当たりの平均月間収入)」だ。
売上高 ≒ 契約者数 × ARPU
この式は、第33章で扱った資産運用会社の「AUM×報酬料率」という構造や、第08章で例に挙げた「顧客数×顧客単価」の構造と、本質的に同じパターンを踏襲している。理論株価評価という営みが、業種を超えて、いかに共通した「分解のパターン」を繰り返し用いているかが、ここでも改めて確認できる。
そして、通信業界の評価において、もう一つ、極めて重要なドライバーとなるのが、「解約率(チャーンレート)」だ。契約者数の将来推移を予測するためには、新規契約者の獲得数だけでなく、既存契約者がどれだけの割合で解約していくか(チャーン)を、併せて予測する必要がある。解約率が低い(顧客の定着率が高い)通信会社は、新規顧客獲得のための営業コストを相対的に抑えられる分、収益性が高くなる傾向がある。
通信インフラという、巨額の設備投資と、規制環境の関係
通信会社は、通信網(基地局、光ファイバー網など)という、巨額かつ長期にわたる設備投資(第04章のCapEx)を必要とする点で、第27章・第28章で扱った電力・ガス・規制公益会社と、多くの共通点を持つ。多くの国において、通信業界(特に、周波数帯域の割り当てや、市場支配的事業者に対する規制)は、政府による一定の規制・監督のもとに置かれており、この規制環境の動向が、通信会社の将来の収益性やドライバー予測に、無視できない影響を及ぼす。
一方、通信業界は、電力・ガスといった「自然独占」の性質が比較的強い規制公益会社と比べると、複数の事業者が、設備やサービス内容、価格戦略において、より活発な競争を繰り広げる、競争的な市場構造を持つことが多い。この競争環境の中で、各社がどのようなポジショニング(価格競争を重視するのか、通信品質やブランド力による差別化を重視するのか)を取っているかによって、将来のARPUや解約率の見通しは、大きく異なってくる。
通信業界における、非通信事業への多角化という論点
近年、多くの通信会社は、伝統的な通信サービスの提供にとどまらず、金融サービス、電子商取引、コンテンツ配信、さらにはデータセンター事業など、非通信領域への事業多角化を積極的に進めている。こうした多角化を進めている通信会社を評価する際には、第19章・第29章で学んだSOTP(事業別価値の合算)の考え方を応用し、伝統的な通信事業(規制公益的な性格を持つ、比較的安定的な収益源)と、新規の非通信事業(それぞれ異なる成長率・リスク特性を持つ)を、切り分けて評価することが、より精緻な理論株価の算出につながる。
この一連の業種横断的な旅の、最終的な総括
第25章から、この第38章に至るまで、資源、バイオ、電力・ガス、規制公益、総合商社、持株会社、コングロマリット、証券、資産運用、航空、海運、鉄鋼、半導体メモリ、そして通信という、実に多彩な業種を巡ってきた。これらの業種は、収益構造も、リスク特性も、会計上の特殊性も、それぞれ大きく異なっているように見える。しかし、この長い旅を通じて、読者である君は、もう一つの、静かだが決定的な真実に気づいているはずだ。
すべての業種において、評価の作業は、常に「その事業の収益は、どのようなドライバーに分解できるか(第08章)」「その事業に固有の、コントロール不能な外部リスクは何か」「その事業の資産は、帳簿価格と時価とで、どれだけ乖離しているか(第03章)」「その事業が生み出す超過収益は、資本コストを上回っているか(第15章、第16章)」という、共通の一連の問いに、丁寧に答えていく作業に、常に還元される。
業種の名前や、専門用語の違いに惑わされることなく、この共通の問いの構造を、自分自身の思考の骨格として持ち続けること。それこそが、この教科書がPART Iから一貫して伝えようとしてきた、理論株価評価という営みの、最も本質的な姿勢である。次に待っているのは、こうして磨き上げてきた個別企業の評価技術を、実際にどう「10年後の株価」という、時間軸を伴う具体的な予測へと統合していくか、という、さらに実践的な段階である。