第26章 バイオrNPV
読了の目安 約4分この章では、資源企業とはまた別の意味で、極めて特殊な評価上の難しさを抱える業種——創薬・バイオテクノロジー企業——の評価手法である「rNPV(risk-adjusted Net Present Value、リスク調整後正味現在価値)」を扱う。この手法は、これまで学んできたDCFの考え方に、「確率」という、新しい次元を組み込む、極めて重要な発展形である。
なぜバイオ企業の評価には「確率」の概念が不可欠なのか
創薬・バイオテクノロジー企業、特に、まだ承認された医薬品(すでに販売されている製品)を持たず、開発中の新薬候補(パイプライン)に依存している企業を考えてみよう。こうした企業の将来価値は、ほぼ完全に、「開発中の新薬候補が、最終的に医薬品として承認され、市場で販売され、収益を生み出せるかどうか」に懸かっている。
しかし、新薬の開発プロセスは、非臨床試験、臨床試験(第I相、第II相、第III相)、そして規制当局への承認申請という、長く険しい道のりを経る必要があり、それぞれの段階で、開発が中止される(有効性や安全性の問題で、次の段階に進めない)リスクが、常に存在する。実際、医薬品開発の歴史を振り返れば、臨床試験の初期段階から最終的な承認に至るまでの成功確率は、決して高いものではなく、多くの新薬候補が、開発の途中で断念されている。
このような「大きなアップサイド(承認されれば莫大な収益)」と、「相応に高い失敗確率」が共存する状況を、通常のDCF(第13章)のように、単一の「成功する」というシナリオだけを前提に評価してしまうと、極めて楽観的に偏った、実態から乖離した理論株価が算出されてしまう。
rNPVの計算構造:各開発段階の成功確率を、明示的に掛け合わせる
こうした事情から編み出されたのが、rNPV(リスク調整後正味現在価値)というアプローチだ。この手法の核心は、「その新薬候補が、最終的に承認され、商業化に至るまでの、各開発段階の成功確率を、明示的に見積もり、それらの確率をすべて掛け合わせた“最終的な成功確率”を、通常のDCFで算出される将来キャッシュフローに、掛け合わせる」という点にある。
数式のイメージとしては、次のようになる。
rNPV = Σ(各シナリオにおける将来キャッシュフローの現在価値 × そのシナリオが実現する確率)
より具体的には、開発の各段階(第I相臨床試験から承認申請まで)ごとに、業界の過去実績データに基づく、平均的な成功確率(これは治療領域によっても大きく異なる。例えば、ある種のがん治療薬と、より研究が進んでいる感染症治療薬とでは、成功確率の水準が大きく異なることが、業界で広く認識されている)を割り当て、これらの確率をすべて掛け合わせることで、「この新薬候補が、最終的に上市(市場に投入されること)に至る、統合的な確率」を算出する。この確率を、もし承認・上市が実現した場合に見込まれる将来のキャッシュフロー(第13章のDCFと同様の手法で算出される)に掛け合わせることで、「期待値としての現在価値」、すなわちrNPVが得られる。
rNPVという発想がもたらす、重要な洞察
このrNPVという手法が教えてくれる、極めて重要な洞察がある。それは、「たとえ承認された場合の収益ポテンシャルが莫大であっても、成功確率が低ければ、その期待値(rNPV)は、直感的に想像するよりもはるかに小さくなる」という、確率論の基本的な、しかし見落とされがちな真実だ。
例えば、ある新薬候補が承認された場合、年間1兆円規模の売上を生み出す可能性があるとしても、その開発の最終的な成功確率が仮に10%程度に留まるのであれば、期待値としての価値は、その1兆円という数字から受ける印象よりも、はるかに慎ましいものになる。バイオ企業への投資判断において、この「ポテンシャルの大きさ」と「実現確率」を、意識的に切り分けて考える習慣は、極めて重要である。
複数のパイプラインを持つ企業の評価:確率加重のポートフォリオとして捉える
多くのバイオ企業は、単一の新薬候補だけでなく、複数の開発段階にある、複数のパイプラインを同時に保有している。この場合の企業全体の評価は、第19章で学んだSOTP(事業別価値の合算)の発想と、この章のrNPVの発想を組み合わせ、「それぞれのパイプラインについて、個別にrNPVを算出し、それらをすべて合算する」というアプローチが取られる。
この際、各パイプラインの開発段階(初期段階のものほど、成功確率は低いが、まだ多くの投資が必要な段階であり、逆に承認直前の段階にあるものほど、成功確率は高いが、その分、市場からの期待もすでに株価に織り込まれていることが多い)の違いを、一つひとつ丁寧に見極めることが、バイオ企業のポートフォリオ評価における、実践的な腕の見せ所となる。