第32章 証券会社の価値評価
読了の目安 約4分PART III(続き)の最終章では、金融業のもう一つの重要な業態、証券会社(投資銀行業務や、ブローカレッジ、資産運用業務などを営む会社)の評価を扱う。証券会社は、第21章で扱った銀行と同様、金融業に共通する評価上の難しさを抱えつつも、銀行とはまた異なる、独自の収益構造の特徴を持っている。
証券会社のビジネスモデルの多様性
証券会社と一口に言っても、その収益源は多岐にわたる。個人投資家からの株式売買手数料に依存する「ブローカレッジ業務」、企業のIPO(新規株式公開)や社債発行を引き受け、その引受手数料を得る「引受(アンダーライティング)業務」、M&Aの仲介やアドバイザリー業務からフィー収入を得る「M&Aアドバイザリー業務」、自己資金を使って市場で取引を行う「トレーディング(自己勘定取引)業務」、そして顧客の資産を預かり、運用の対価として運用報酬を得る「資産運用業務」など、極めて多様な収益源が存在する。
証券会社評価における最大の特徴:収益のボラティリティの高さ
証券会社を評価する上で、他の金融業(特に銀行)と比較して、最も特徴的な点が、「収益のボラティリティ(変動性)の高さ」だ。ブローカレッジ業務やトレーディング業務による収益は、株式市場の売買代金の増減や、市場の変動幅(ボラティリティ)そのものに、直接的に連動する。市場が活況で、取引が活発な局面では収益が大きく伸びる一方、市場が低迷し、取引が閑散とする局面では、収益が急速に落ち込む、という、極めて景気循環的な(シクリカルな)性質を持っている。
この特徴は、第08章で学んだ「正常化」の作業が、証券会社の評価において、他のどの業種にも増して、決定的に重要であることを意味する。ある一年度の利益水準が、たまたま市場が活況だったことによる、一時的に膨らんだ数字なのか、それとも市場環境が正常化した状態でも持続可能な、実力に見合った水準なのかを、複数年度、できれば一つの景気循環(強気相場と弱気相場の両方を含む、数年から十年程度のサイクル)にわたるデータを見渡して、慎重に見極める必要がある。
収益の質による評価倍率の違い:安定収益と変動収益を切り分ける
証券会社の評価実務では、しばしば、収益の性質を「安定的な収益(資産運用業務からの運用報酬など、預かり資産残高に連動する、比較的安定したフィー収入)」と「変動の大きい収益(トレーディング業務やブローカレッジ業務からの収益)」に切り分け、それぞれに異なる評価倍率(あるいは、第19章で学んだSOTPの発想を応用し、それぞれを別個の事業として評価する)アプローチを取ることがある。
安定的な収益を生む資産運用業務は、その収益の予見可能性の高さから、相対的に高いPER・評価倍率が正当化されやすい一方、変動の大きいトレーディング業務については、その収益の持続可能性への不確実性から、相対的に低い評価倍率が適用される傾向がある。これは、第10章で学んだ「PERの奥には成長率とリスクが織り込まれている」という理論的な洞察が、証券会社という業種において、収益源ごとに、極めて明確な形で表れる、興味深い実例である。
証券会社評価における財務体質のチェック:自己資本規制と流動性
最後に、証券会社(特に自己勘定でのトレーディング業務を大規模に行っている会社)を評価する際には、第21章で銀行について触れたのと同様に、財務健全性の検証が極めて重要になる。証券会社もまた、多くの国において、自己資本規制(保有するリスク資産の量に応じて、一定水準以上の自己資本を維持することを求める規制)の対象となっており、この規制上の自己資本の充実度は、市場が急変した場合(例えば、2008年の世界金融危機のような、市場全体が大きく混乱する局面)に、その証券会社が持ちこたえられるかどうかを判断する上で、決定的に重要な指標となる。
また、証券会社は、日々の取引に伴う資金の出し入れ(流動性)の管理も、極めて重要な経営課題である。市場の混乱時に、資金繰りが逼迫し、最悪の場合は経営破綻に至るリスク(いわゆる流動性危機)は、証券会社という業態に、構造的に内在するリスクである。理論株価評価においては、こうした「テールリスク(発生頻度は低いが、発生した場合の影響が甚大なリスク)」を、通常のDCFの枠組みだけでは捉えきれないことを自覚し、財務健全性の定性的な評価を、常に併せて行う姿勢が求められる。
この一連の章の総括:業種の個性を読み解く目を、さらに鍛える
資源、バイオ、電力・ガス、規制公益企業、総合商社、持株会社、コングロマリット、そして証券会社——この一連の章を通じて、私たちは、実に多様な業種が、それぞれに固有の事情を抱えながらも、根底ではPART Iで学んだ共通の原理(現在価値、FCF、資本コスト、資産と負債の構造)によって貫かれている、という事実を、繰り返し確認してきた。次の章群では、こうした個別業種の知識を踏まえた上で、いよいよモデル全体の「検証」と「実践への統合」という、さらに一段階進んだテーマに足を踏み入れていくことになる。