第7章 株主資本コストとWACC
読了の目安 約6分いよいよ、この教科書の「土台」パートにおける最大の難所、そして同時に最大のご褒美とも言える章にたどり着いた。割引率——第02章で「タイムマシンの為替レート」と呼んだあの数字——を、具体的にどうやって決めるのか、という問いにここで正面から向き合う。この問いへの答えが、「株主資本コスト」と「WACC(加重平均資本コスト)」という、二つの密接に関連した概念である。
「資本コスト」とは何か:お金にも値段がある
まず大前提として、「資本コスト」という言葉の意味を腹落ちさせておこう。企業がお金を調達する方法は、大きく分けて二つある。銀行から借りる、あるいは社債を発行する「負債による調達」と、株式を発行して株主から出資してもらう「株式(エクイティ)による調達」だ。
そして、どちらの調達方法にも、実は「コスト」がかかっている、という事実に気づくことが、この章の最初の一歩だ。負債のコストは分かりやすい。銀行に払う利息、社債権者に払う利息、これがそのままコストである。
では、株式による調達のコストとは何か。ここが初心者にとって最も直感に反する部分だ。「株主から出資してもらったお金には、利息を払う必要がない。だからタダで手に入るお金じゃないか」と思うかもしれない。しかし、これは大きな誤解である。株主は、自分たちの大切なお金をその会社に投じる代わりに、「相応のリターン(値上がり益や配当)」を期待している。もし企業が、その期待に見合うだけのリターンを生み出せなければ、株主はその株を売って、もっと良いリターンが期待できる別の会社の株に乗り換えてしまう。つまり、株主から集めたお金にも、「株主の期待に応えなければならない」という、目に見えないが確かに存在する「コスト」が発生しているのだ。この「株主が期待するリターン率」のことを、株主資本コスト(コスト・オブ・エクイティ)と呼ぶ。
株主資本コストはどう決まるのか:CAPMという考え方
では、この「株主が期待するリターン率」を、どうやって具体的な数字として算出すればいいのか。ここで実務上、非常に広く使われている考え方が、資本資産価格モデル(CAPM、キャップエムと読む)である。この教科書では、CAPMの数学的な導出過程には深入りしすぎず、実務で使うための考え方の骨格をしっかり押さえることに専念する。
CAPMの発想は、シンプルに言えばこうだ。「株主が期待するリターンは、リスクを取らなくても得られる最低限のリターン(リスクフリーレート)に、その株式特有のリスクの大きさに応じた、追加のリターン(リスクプレミアム)を上乗せしたものである」。
まず「リスクフリーレート」とは何か。これは、理論上「ほぼ確実に得られる」とされるリターン率のことで、実務上は多くの場合、その国が発行する長期国債(例えば日本であれば10年物国債)の利回りが使われる。国が発行する国債は、その国自体が財政破綻でもしない限りデフォルト(債務不履行)しないと考えられており、極めて安全な資産だとみなされているためだ。
次に「リスクプレミアム」とは、株式市場全体に投資することのリスクに対して、投資家が要求する上乗せ分のリターンである。これは、株式市場全体の過去の実績データなどをもとに、経験的に推定される数字であり、市場や地域によって異なるが、大まかな目安として、長期的には年数%程度の水準が用いられることが多い。
そして最後に、個別の企業ごとの「リスクの大きさ」を調整するための係数、「ベータ(β)」という数値が登場する。ベータとは、株式市場全体が1%動いたとき、その個別企業の株価が平均的に何%動くかを示す指標だ。ベータが1.0であれば、市場全体と同じ動きをすることを意味し、ベータが1.5であれば、市場が10%上昇(下落)したとき、その株はより大きく15%上昇(下落)する傾向があることを示す。ベータが1.0を下回る株は、逆に市場よりも値動きが穏やかな(ディフェンシブな)株だということになる。景気変動の影響を受けやすい業種(例えば高級品や半導体など)はベータが高くなる傾向があり、生活必需品を扱う業種(食品や電力・ガスなど)はベータが低くなる傾向がある、というのが一般的な経験則だ。
これらを組み合わせると、CAPMの数式は次のようになる。
株主資本コスト = リスクフリーレート + ベータ × リスクプレミアム
この数式が意味するところを言葉で噛み砕けば、「安全資産で得られる最低限のリターンに、その会社の株特有のリスクの度合いに応じた上乗せ分を足したものが、株主が要求するリターン(=株主資本コスト)である」ということになる。
WACCという「全体の平均コスト」
さて、いよいよこの章のもう一つの主役、WACC(加重平均資本コスト、Weighted Average Cost of Capital)に進もう。第06章で学んだ通り、企業価値(EV)は、株主と債権者、両方への取り分を含む「全体のパイ」だった。このEV全体を将来のFCFから逆算するためには、「株主と債権者、両方の資金提供者が要求するコストを、それぞれの調達比率に応じて加重平均した割引率」を使う必要がある。これがWACCの正体だ。
WACCの数式は、次のように表現される。
WACC = 株主資本コスト × (株主資本の時価総額 ÷ (株主資本の時価総額 + 有利子負債)) + 負債コスト × (1−実効税率) × (有利子負債 ÷ (株主資本の時価総額 + 有利子負債))
一見複雑に見えるが、構造はシンプルだ。「株主資本コストに、資金調達全体に占める株式の比率を掛けたもの」と、「負債コストに、資金調達全体に占める負債の比率を掛けたもの」を、単純に足し合わせているだけである。それぞれの調達手段の「重み(ウェイト)」に応じて平均を取っているから、「加重平均」資本コストと呼ばれる。
ここで一点、初心者が見落としがちな重要なディテールに触れておきたい。負債コストの部分に、「(1−実効税率)」という調整が入っている点だ。これは「節税効果」を反映するためのものである。企業が銀行や社債権者に支払う利息は、税務上、費用として扱われ、法人税を計算する際の課税所得から差し引くことができる。つまり、借金の利息を支払うことで、その分だけ支払う法人税が減るという、副次的な恩恵が生じる。この恩恵を織り込むことで、負債の「実質的なコスト」は、表面上の金利よりも低くなる、という調整がなされているのだ。
なぜEVの計算にはWACCを、株主価値の計算には株主資本コストを使うのか
この章の最後に、極めて重要な「使い分けのルール」を明確にしておきたい。第06章で「EVと株主価値を混ぜない」という教訓を叩き込んだが、実は割引率の選択においても、全く同じ原則が貫かれている。
企業全体が生み出すFCF(株主にも債権者にも分配される前の、事業全体が生み出すキャッシュフロー)を現在価値に割り引いて、EVを計算する場合には、株主と債権者両方のコストを加重平均したWACCを使う。これは、割り引く対象(FCF全体)が「株主にも債権者にも属する、パイ全体」だからだ。
一方、もし仮に「株主に帰属する取り分だけのキャッシュフロー」を直接割り引いて、株主価値を直接計算しようとする場合には(実務ではこちらの手法もしばしば用いられる)、割引率にはWACCではなく、株主資本コストそのものを使わなければならない。分子(割り引く対象のキャッシュフロー)が「誰の取り分か」に応じて、分母にあたる割引率も「誰のコストか」を対応させなければならない、という一貫した論理がここにも貫かれている。
この「分子と分母の対応関係」を意識せずに、なんとなくWACCと株主資本コストを混同して使ってしまうと、第06章で見たのと同様に、計算結果が大きく歪んでしまう。理論株価評価という営みは、このように、常に「今扱っているのは誰の取り分の話なのか」を厳密に管理し続ける、緻密なパズルのような作業なのだ、ということを、この章を通じて改めて実感してもらえたなら幸いである。次章では、いよいよこれらの割引率を「何に対して」使うのか、その対象となる未来のFCFそのものを、どうやって現実的かつ論理的に予測していくか、という「正常化とドライバー予測」の世界に進んでいこう。