第22章 保険会社の価値評価
読了の目安 約3分続いて、もう一つの特殊な金融業種、保険会社の評価に進もう。保険会社もまた、銀行と同様に、一般の事業会社とは大きく異なる会計構造・ビジネスモデルを持っており、専用の評価上の配慮が必要となる。
保険会社のビジネスモデルの本質:「時間差のあるお金の管理」
保険会社のビジネスモデルの本質を、まず理解しておこう。保険会社は、契約者から「保険料」を先に受け取り、将来、事故や病気、死亡といった保険事故が発生した際に「保険金」を支払う、という約束を交わしている。つまり保険会社の事業は、本質的に「保険料を受け取ってから、保険金を支払うまでの、時間差のあるお金を、適切に管理・運用する」という営みなのだ。
この「時間差」の間、保険会社は預かった保険料(そしてそこから積み立てられる「責任準備金」と呼ばれる、将来の保険金支払いに備えるための負債)を、株式や債券、不動産といった様々な資産に投資して運用する。したがって、保険会社の収益は、大きく二つの源泉から成り立っている。一つは「保険引受利益」——受け取った保険料と、支払った保険金・事業費の差額から生じる、保険という事業本体の利益。もう一つは「運用収益」——預かった資産を運用することで得られる、投資リターンだ。
保険会社評価における最大の難所:責任準備金という「未来の見積もり」
保険会社の評価において、最も重要かつ最も難解な論点が、「責任準備金」という、貸借対照表上の巨大な負債項目の評価だ。この責任準備金は、「将来発生するであろう保険金の支払いに備えて、あらかじめ積み立てておくべき金額」を表しているが、この金額自体が、将来の死亡率、疾病発生率、事故発生率、さらには将来の金利水準といった、極めて長期にわたる、不確実性の高い「見積もり」に基づいて算出されている。
第09章で学んだ「観測事実・推定・仮定を分ける」という作法が、保険会社の評価においては、これ以上ないほど切実な形で問われることになる。責任準備金の見積もりの前提(死亡率テーブルや、割引率として用いられる予定利率など)が、経済環境の変化(特に金利水準の変化)によって、実態と乖離してしまうことがある。この乖離は、保険会社の実質的な財務健全性に、大きな影響を及ぼしうる。
エンベディッド・バリュー(EV)という、保険業界独自の評価概念
こうした事情から、保険業界(特に生命保険会社)の評価においては、一般的な財務諸表の分析だけでなく、「エンベディッド・バリュー(Embedded Value、EV)」と呼ばれる、業界独自の評価概念が、広く用いられている。ここでの「EV」は、第06章で扱った「企業価値(Enterprise Value)」とは全く異なる概念であり、同じ略語が使われる点に、初心者は必ず混乱するので、強く注意を促しておきたい。
保険業界におけるエンベディッド・バリューとは、大まかに言えば、「現在、保険会社が保有している純資産(修正純資産)」に、「既に契約されている保険契約が、将来にわたって生み出すであろう利益を、現在価値に割り引いたもの(保有契約価値)」を加えたものである。これはまさに、第13章で学んだDCFの考え方——将来のキャッシュフローを現在価値に割り引くという発想——を、保険という、極めて長期にわたる契約構造を持つビジネスに特化させた、専用のフレームワークである。
さらに、このエンベディッド・バリューに加えて、「今後、新たに獲得されるであろう新契約が生み出す価値」を織り込んだ、「アプレイザル・バリュー(Appraisal Value)」という、より発展的な概念も、実務上、用いられることがある。
保険会社評価で特に注意すべきリスク要因
保険会社の評価において、特に注意深く検証すべきリスク要因として、「巨大災害リスク(自然災害や、パンデミックのような、極めて稀だが発生した場合の損害規模が甚大なリスク)」と、「長期にわたる金利変動リスク(特に生命保険会社にとって、保険契約締結時に約束した予定利率と、実際の運用利回りとの間に生じる、いわゆる“逆ざや”のリスク)」の二つが挙げられる。特に後者は、金利が長期間にわたって低い水準で推移した場合、過去に高い予定利率で契約された保険契約が、保険会社にとって重い負担になり続ける、という構造的な問題を引き起こしうる。保険会社の正常化(第08章)を行う際には、こうした長期的かつ構造的なリスク要因を、単年度の決算数字だけでは捉えきれないことを、強く意識しておく必要がある。