第20章 会社に式を合わせる
読了の目安 約3分PART IIIのここまでの三つの章(赤字企業、非上場企業、多角化企業)を通じて、私たちは「一つの標準的な評価手法が、あらゆる会社に等しく当てはまるわけではない」という、極めて重要な教訓を、繰り返し学んできた。この章は、PART IIIの折り返し地点として、この教訓を、より一般化された「思考のフレームワーク」として整理し直す、いわば「総括的な作法」を扱う章である。
なぜ「万能の公式」は存在しないのか
理論株価評価を学び始めたばかりの初心者は、しばしば「どんな会社にも当てはまる、たった一つの正しい計算式」を求めてしまう。しかし、この教科書がここまで繰り返し示してきた通り、企業という存在は、業種、成長ステージ、資本構成、収益構造、会計処理の特性において、驚くほど多様である。銀行と製造業とでは、そもそも「利益」や「資産」の会計上の意味合いが大きく異なる(この点は次章以降、銀行・保険・不動産の評価で、徹底的に扱う)。だからこそ、理論株価評価という営みにおいて本当に重要なのは、「万能の公式を暗記すること」ではなく、「目の前の会社の性質を正しく見極め、その性質に最も適した評価手法を、その都度、選び取り、必要であれば複数の手法を組み合わせる判断力」なのである。
会社の性質を見極めるための、チェックリスト的な問い
この判断力を養うために、この教科書が提案するのは、評価対象の会社に向き合う際、次のような一連の問いを、自分自身に投げかける習慣だ。
第一の問い。「この会社は黒字か、赤字か」。黒字であればPER(第10章)やDCF(第13章、第14章)が素直に機能するが、赤字であれば第17章の黒字化モデルのアプローチが必要になる。
第二の問い。「この会社は上場しているか、非上場か」。上場していれば市場株価という参照点が使えるが、非上場であれば第18章で扱った非流動性ディスカウントや支配権プレミアムといった調整が必要になる。
第三の問い。「この会社は単一事業か、複数事業の複合体か」。複合体であれば、第19章のSOTPのアプローチを検討すべきだろう。
第四の問い。「この会社の“資産”とは、具体的に何を指すのか」。これは、次章以降で扱う金融業(銀行・保険)や不動産業を評価する際に、決定的に重要になる問いだ。製造業であれば、資産の中心は工場や機械といった有形固定資産だが、銀行であれば、資産の中心は「貸出金(顧客への貸付)」という、金融資産そのものになる。この「資産の性質の違い」が、後述する通り、評価手法そのものを大きく変えることになる。
第五の問い。「この会社の利益は、事業活動から直接生まれているのか、それとも保有資産の含み損益(評価損益)に大きく左右されるのか」。これも、保険会社や不動産会社の評価において、極めて重要な論点として、次章以降で扱っていく。
複数の手法を「クロスチェック」として使う実務上の知恵
もう一つ、この章で強調しておきたい実務上の知恵は、「単一の評価手法の結果だけを鵜呑みにしない」という姿勢だ。理論株価評価の実務家の間では、しばしば「複数の異なる評価手法を並行して用い、それぞれの結果を突き合わせて、大きく乖離していないかを確認する」という、クロスチェックのアプローチが取られる。
例えば、ある企業についてDCF(第13章)による理論株価と、類似企業のPER水準を参考にした簡易評価(第11章)による理論株価を、それぞれ独立して算出し、両者を比較する。もし両者が大きく乖離していれば、それは「DCFの前提(成長率や割引率)が、市場の一般的な評価水準と大きくズレている」ということを意味しており、その乖離の原因を、丁寧に掘り下げて検証する必要がある、という重要なシグナルになる。逆に、複数の異なる手法から算出された理論株価が、ある程度近い水準に収束するようであれば、その理論株価に対する確信の度合いは、相応に高まる、と考えることができる。
この「複数の物差しでクロスチェックする」という姿勢こそが、単一の数式に盲目的に依存することの危うさから自分自身を守る、最も実践的で、最も効果的な防御策である。次章からは、いよいよ、この「会社に式を合わせる」という思想を、最も顕著な形で体現する、特殊な業種——銀行、保険、不動産——の評価手法へと、具体的に足を踏み入れていくことになる。